2008年7月19日 (土)

頭と体がつながっていない話

こんにちは。


先日・・・夢を見ました。


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*   *   *   

ぼくは、実家の近くの道路を車を走らせていました。


その道路は、あまり広くない・・・対向車が来たら、やっとすり抜けられるくらいの狭い道路でした。さらにその道路は、(夢の中では)首都高のように地上数十mのところを走っているのでした。


ふと前方を見ると、一台の車が路上に停まっていて、道の半分をふさいでいます。その車は、何かに立てかけられているように傾いた状態で停まっており、中には運転手らしき人が座っていました。


ぼくは、その車のわきをすり抜けようとして車を走らせていったのですが、見ると、停まっている車のわきの道路が、長方形の形に削れていて、さらに狭くなっていることに気づきました。


このままつっこんでしまったら、片方のタイヤが脱輪して、道路から下へと真っ逆さまに落ちてしまうかもしれない状況でした。


しかし、車はスピードが出ていたため止まれません。


ぼくは覚悟を決めて、停まっている車のわきギリギリのところを走り抜けようとしました。


わきをすり抜けるとき、もし、一瞬でも体が宙に浮いた感じ・・・自分が落下していく感じがしたら、それは、もう車ごと落ちていくときだろう・・・そうなったらもう命は無いだろう・・・そんなことが、ふと、頭に浮かびました。でも不思議と怖くはありませんでした。


そうして次の瞬間・・・ぼくの車は、無事、そこをすり抜けることができていたのです。


*   *   *   *   

さて、後日、その夢の話を、以前同僚だった先生に話してみました。感想を聞いてみようと思ったのです。


そうすると、夢の話を聞いて、その先生は、


「怖さを感じなかったっていうのが面白いねー。すっごく冷静に状況を観察している感じがする」


と言いました。

 
この感想を聞きながら、ふと、以前、「頭と体がつながっていない」という話を聞いたことがあるのを思い出していました。それは・・・今から、10年くらい前のことですが、とあるエンカウンターグループに参加した時のこと、そこに来ていたファシリテーターの方が、


「頭と体のつながりの悪い人がいて、そういう人は、お城に閉じ込められたお姫様を助けにいこうとすることがよくあるんだよね」

と話していたのを思い出したんです。


ちなみに今、ぼく自身が、誰か「お姫様」的な人を助けに行きたいと思っている・・・とかいう話ではぜーんぜんありません(笑)

 

ただ、「感じること(怖さ・うれしさ・怒り等々)」と、「自分」とは、ちょっと異なる空間にある感じがありまして、「自分」は「感じること」を少し離れた所から冷静に見ている・・・そんな感じがいつもあるなぁ・・・と思ったわけです(^^;

 

そう考えてくると、昨年の夏くらいから、ずっと自分が「さびしさ」に包み込まれていたときというのは、そのファシリテーター風に言うなら、「頭と体がつながった状態」と言えたのかもしれません。

でも、まあ、その時期は脱してしまったわけで、今さら戻れないし戻るのも辛そうなので(笑)、今のままでいいか・・・と思いました(^^;

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2008年6月22日 (日)

セブンイレブンの駐車場から道に出るとき・・・

こんばんは、10月です。

 

先日、セブンイレブンで買い物をして、駐車場から車で道に出ようとしたときのことです。

 

そのセブンイレブンは、ちょうど交差点のところにあり、セブンイレブン(の駐車場)に接した道には、信号待ちの車がずらりと並んでいたのでした。

 

ぼくは、信号が変わって並んでいる車がいなくなってから出て行けばいいや、と思っていたんですが、信号が青になり、車が動き出す中、一台の車が止まってくれ、わざわざぼくの車を前に入れてくれたのでした。

 

そのとき、

・・・いやー、親切な人もいるんだな~・・・

と、思う一方で・・・ちょっと変な話なんですが、ふと、その運転手さんが怒っているんじゃないかな?という気がしたんです(^^;

 

別に、その運転手さんの表情が険しかったとか、ぼくが運転をモタモタしていて迷惑をかけたとか、そういうことではありません。

 

それなのに・・・どうして、そんな風に感じてしまったのか?と、ちょっと考えてみたんですが・・・

 

たぶん、普段、ぼく自身が、車を運転していて、自分の前に車を入れてあげるときというのは、自分の中では、

 

「まあ、しかたないか~」

 

と納得してそうしているものの、気持ちのどこかで、

 

「何で、よりによって、自分の前にいれてあげなくちゃいけないんだ!!」

 

・・・というようなことも感じていて、そちらの気持ちを考えないようにしている・・・ような気がします。

 
 
 

それで今回、どういうわけか、その親切な運転手さんに、自分の考えないようにしている方の気持ちを重ねてしまった(投影してしまった)・・・ということなのかもしれないな~・・・と思ったわけです。


ですが・・・ここまで書いてみて、車を割り込ませてあげるとき、自分が感じるものは、上に書いた気持ちだけではないことに気づきました。


そうすることを通して、「親切な自分」を確認しているというか、自分自身に対する肯定感を増やしているというか・・・そんな側面もあることに気がつきました。


うーーん・・・そう考えてみると・・・あのときの運転手さんも、別に怒ってなかった・・・ようにも思えてきます(^^;


 

何というか・・・自分の中に余裕?があるとき、というか、気持ちが楽なときというのは、より一層、自己肯定感を増やす行動を選べる気がするんですが、そうでないとき・・・気持ちが落ちているときは逆に、自己否定感を増やすような行動ばかりを選んでしまう・・・そんな気がします。

 

これが逆だったら、こんなに気分の上がり下がりを感じなくても済むのかなぁ?(^^;

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2008年5月24日 (土)

学校の怪談・・・か!?

こんばんは、10月です。

 

今日の夕方・・・午後6時頃のことです。

 

今日は土曜日だったのですが、模擬試験のため学校を開けたのでした。

 

そうして模擬試験が終わり、生徒たちを帰して・・・自分も帰るべく最後の戸締まりをして、玄関付近で、もう一人残っていた先生と、ちょっと立ち話をしていたときの出来事でした。

 

その先生とぼくとで、しばらく・・・と言っても、たぶん、10分くらいだと思いますが・・・立ち話をしていたときのこと、突然、玄関脇にある、職員用の男子トイレの方から・・・「ジャーーー・・・」という、水の流れる音が聞こえてきたのです。

 

その先生とぼくは、

 

・・・誰か、生徒が残っていたのか!? 

 

と、ビックリして、トイレの中に入っていってみたのです・・・ですが、そこには誰もおらず、ただ、小用の便器の一つに水だけが流れていたのです・・・

 

ちなみに、そのトイレは、「自動洗浄機能」などという高価な機能がついているわけではありません。ただ、赤外線センサーがついており、便器の前に人が立つと、自動的に水が流れるしくみにはなっているのですが・・・

 

その、赤外線センサーが、何かを感知して、水が流れた・・・・ということですよね(^^;


 
 

そのとき、話をしていた先生(女性の先生です)は不可解な出来事に、一刻も早く帰りたそうにしていましたが、ぼくはもう、そのトイレに出たり入ったり、この話しを誰に自慢しようかと考えたりと大喜びでした(笑)

 

こういうところが、大人になれないところなんでしょうか?(^^;



 

いやー、しかし・・・考えてみると、教員になって本当に初めての、不思議な出来事だった気がします\(^。^)/ヤッター!!

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2008年5月12日 (月)

さびしさが消えた!?

こんにちは、10月です。ごぶさたしております(^^;

 

さて、昨年の夏ごろから、なんだかよくわからない寂しさの中に入り込んでいたんですが、いつの間にかそれが消えていることに、先日、気づきました(^^;

 

しかし、まぁ、この自分の中の変化は、いったい何なのか、自分でもよくわからないんですけれども、ともかく、ここのブログの記事を読み返してみても、かーなーり、後ろ向きの記事を大量生産してきたような感じがしますねー(^^;

 

今にして思えば、昨年の8月に『やっぱり寂しくてしょうがない・・・(^^;』という記事を書いたりして、何とか自分の感じている寂しさの正体を探ろうとしたりしたんですが、結局、それはわからないまま、寂しさに突き動かされるようにして、周囲の人との人間関係を壊してきてしまったような気がします(-_-;

 

その当時のことを振り返ってみると・・・大きな寂しさの渦の中で、そうせずにはいられなかった・・・と、そんな風にも思うんですが、それと同時に、本当に、あの凍えるような、北風にふかれているような時期は、いったい何だったの!?と誰かに言いたい気持ちでもあります(まあ、ここで、こうして、言ってるわけですけれども(^^;)


 

   *   *   *   *

 

変な話しかもしれませんが、ふと、『海辺のカフカ』の中に出てくる「入り口の石」のことを思い出しました。

 

「入り口の石」というのは・・・えーと・・・まあ、何かの入り口を開けるための石なんですけれども(って、何の説明にもなってませんね(^^;)・・・

 

「入り口の石」について、ぼくの言葉で勝手にまとめてしまうと・・・「入り口の石」が閉じている間は、物事は日常的に流れていきます。日常的というのは、多くの可能性が制限される一方、それは安全をも保証してくれるものであるように思います。

 

一方、「入り口の石」が開くと、物事の流れは、「制限」を失い、多くの可能性が生じることになります。しかし、多くの可能性が生じると言うことは、同時に想定できないことの発生をも意味し、危険を伴うことにもなります。

 

それで・・・寂しさに飲み込まれていた時は「入り口の石」が開いた状態、寂しさが去った今の自分は、「入り口の石」が閉じた状態・・・という感じがするな~、と思ったわけです(^^;


 

   *   *   *   *

 

そういえば、寂しさが去ったあと、これまでの自分ではあまり考えつかないような変化がありました。

 

一つは、服を買いに行ったこと・・・バシ(-_-;)\(-_-#)ソンナコトカイ!

 

えーと、以前、『服を買いに行くのがコワイ』という記事を書いたこともあるくらい、ぼくは、服を買いに行きたくない人なんですけれども(笑)、そんな自分が、自分から率先して、服を買いに行ってきたりしたというのは、自分にとっては、結構、大きな変化だと思うわけです(^^;

 

もう一つは、休日、誰か誘って遊びに行こうと考えるようになったこと(^^;

 

・・・これも、何だか誘っては悪いかなー?なんていう気をつかっていたところがあったんですが、別に、声をかけてみるだけなら迷惑ではないかな?と思うようになった、ということがもう一つの変化のような気がします。

 
 

ちなみに、上記の作品(『海辺のカフカ』)の中で、「入り口の石」を開けるのは、

「いろんなものをあるべきかたちに戻すため」

・・・と述べられています。


 

今回の寂しさ・・・が、ちょうど、自分にとっての「入り口の石」だったのだとしたら、自分の中で、何かが、「あるべきかたちに戻」ったということなのかな~?(^^;

 

・・・なんてことを思ったりしたのでした。

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2008年4月22日 (火)

先日の授業中・・・

こんばんは、10月です。

 

先日、1年生のあるクラスで授業をしていたときのことです。 

一人の生徒の携帯に着信(またはメール)があったらしく、とつぜん、着メロ(着うた?)が流れてしまったのです。

 

携帯を鳴らしてしまった子は、叱られると思ったのか、一瞬、どうして良いかわからないという表情になり、動きも固まってしまった・・・ようにぼくには見えました。

 

他の生徒も、事の成り行きを見守るように動きが止まり、空気がしんとする中、着メロだけが流れていました。

 

そうこうするうちにメロディーは止まったのですが、携帯を鳴らしてしまった子の表情は固まったまま。

 

 

ふと、思いついて、ぼくが、

「今の曲は、何ていう曲ですか?」

と聞いてみたところ・・・次の瞬間、教室はドッと笑いに包まれたのでした。


 

そのとき、笑っている生徒たちから、

・・・どうせ聞いてもわかるわけない!!

というような空気も感じられたので、

 

「いやー、実は、この前、うちのクラスの生徒からエグザイルのCDを借りたんですけどね~」

 

と言ってみたところ、生徒たちは、えーー!?という表情を浮かべ、そんな中、ひとりの生徒が、

 

「にあわなーい!!」

 

と叫んだのに合わせて、また教室は笑いに包まれたのでした。

 
 
 

それから、少し、そのぼくには似合わないCDの話をした後、

「あれ??なんでエグザイルのCDの話になったんだけ?」

と言ったところ、最初に携帯を鳴らした子が、おずおずと、

  

「私が携帯を鳴らしちゃって・・・」

 

と言ってくれ、それを機に?再び授業の話に戻りました。

 
 

さて・・・さっぱり、何のオチも無いんですが(^^;・・・ちょっと、楽しかった一幕なので、書いてみました(^^;

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2008年4月20日 (日)

ピリピリしている人

こんばんは、10月です。

 

身近に、すごくピリピリしている人がいます。

 

・・・というか、「ぼくに対して」ピリピリしている・・・という感じがします(^^;

うーーん・・・ちがうかな?「ピリピリ」というよりも、「イライラ」というほうが、より近いかもしれません(^^;


  

その人は、以前は、今とまったく逆で、ぼくのペースに対して、

「どうしてそこまで肯定的に考えてくれるの!??」

と、ぼく自身が感じてしまうくらい(笑)、ぼくのことを肯定してくれていた気がします。

 
 

「すべて肯定」から「すべて否定」に変わって行くまでには、いろいろなことがあった・・・ような気がしますが、イライラをぶつけられ続けるのは、なかなかしんどいものです(^^;

 

昨日の記事ではないですけれども、「イライラ」というような感情をぶつけられるのではなく、ぼくの直して欲しい部分を「否定」という形で示してくれると、ぼくの方ではもう少し受けとめやすいかな?・・・なんてことも思うんですけれども(^^;

 

そういえば、以前、その人から、ぼくの持っている「雰囲気」そのもの(フワフワしているところ)がダメ・・・みたいなことを言われたこともありました(^^;

 
 

こうなると、けっこう、もう、どうしようもない気がしますね・・・あきらめて、なるべくその人を刺激しないように生活するしかないんでしょうか・・・(^^;

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2008年4月19日 (土)

「否定」されること

こんにちは。10月です。ちょっと更新が滞っていました(^^;

  

 

先日、ずーーっと以前に関係が悪くなって、疎遠になっていた人と話をする機会がありました。

 

そのとき、当時のことについての話も出たんですが、その中で、相手の人の方で、ぼくの何を許せなかったのか・・・ということについて、初めて話を聞くことができました。

 

 

当時は、お互いに何か言葉を発すると、意図していないにも関わらず、その言葉が相手のどこかを刺激して、お互いが傷つく、苦しくなってしまう・・・そんな感じだったと思います。

 

ですが、先日、話をしたときには、話されている「内容」そのものは、ぼくに関して、否定的な内容がふんだんに盛り込まれていた(笑)んですけれども、ですが、そのことを聞いているぼくの方では、それほど苦しい気持ちにはならず、かえって静かな気持ちで話を聞くことができたような気がします。

 

 

そして、変な話ですが、その話を聞いたあと・・・「何かが透明になっていく気がした」という表現が一番ぴったりくるんですが・・・なんだか、胸のつかえがとれたような、すこしサッパリしたような、地に足がついたような、やっと本当のその人に触れられたような・・・そんな気がしたのでした。

 
 

以前、ギクシャクしていたときには、否定的な言葉を使わなかったのにもかかわらず・・・もしかすると使わなかったからこそ、お互いに傷ついてしまったのだろうか?とさえ思えてしまいました。ちょっと、不思議な体験です(^^;

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2008年4月 6日 (日)

ゆるすこと

先日、「カウンセリングというのは、カウンセラーがクライエントにゆるしてもらうことが大切」という話を聞きました。

 

・・・これは、神父様が懺悔する人に「赦し」を与えるイメージとは、ちょうど逆な感じですね。カウンセラーがクライエントを「ゆるす」のではなくて、クライエントのほうがカウンセラーを「ゆるす」というのです。

 

たしかに「(何かを)ゆるすことのできるような気持ちの状態になる」ということや、「(何かを)ゆるすという体験を積み重ねていくこと」は、ものすごく大きな意味がありそうな気がします。

 
   

さて、そんなことを考えている中で、ふと、

・・・自分が許せないこと(人)って、あった(いた)かな?・・・

というようなことを思いました。

 

ぼくの場合、自分を許してくれない人は思いつくんですけれども(笑)、自分が許せないこと(人)というのは、ちょっとすぐには思いつかない気がします(^^;

 

ですが、そんなことを考えているうちに、もう一つ別なことを思い出しました。やはり以前、

「(カウンセリングでは)クライエントが、ちゃんと『恨む』ことができるようになったら、そのクライエントの問題は、すでにかなり解決している」

という話を聞いたこともあったんです。


この2つのお話は、一見、逆のことを言っているようで、実は、けっこう同じ事を言っているのかもしれない・・・という気もします。

 

つまり・・・「ちゃんと恨むことができる」ということと、「ゆるすことができる」ということとは、すごく近いことのような気もするわけです。

 

うーーーん・・・でも、そんなふうに考えていくと、ぼく自身の場合、「恨む」ということがちゃんとできているような気がしない・・・ということは、許せないことが思いつかないというのは、本当にそういうことがないということではなくて・・・許す・許さないというところまで自分が進んでいけていないということなのかもしれません。

 

 

そういえば、ブログを書き始めた当初、『実は、「学校の先生」が嫌い』という記事を書いたことがありました。

 

「許せない」ということとはちょっと違うかもしれませんが、ぼくが「学校の先生」という人たちに対して持っていたイメージの中には、何か、自分としては好きになれない共通した匂いのようなものがありました。

 

それは・・・何か、いろいろなことをステレオタイプな見方でしか受け止めない、そして、その受け止め方に対して他人の意見を聞かない(揺るがない)・・・というようなイメージでした。ぼくは、その匂いを発する人に対しては、自分がとりつく島がない、自分を理解してもらえないように感じ、逆に自分の方でもその人たちを理解できない・・・と感じていた気がします。

 

今にして思えば、たぶん、自分が受け入れられなかったのは、「どうやっても絶対に許してもらえないものがある」という・・・安心のできなさ、というのでしょうか・・・そんなものだったような気がします。

 

・・・と、ここまで書いてみて、これは「父性」というものを受け入れられないというお話なのかな?という気がしてきました(^^;

 

そんなふうに考えてみると、自分の場合、「父性」を感じたとき・・・例えば自分の何かを否定されたとき、そこで一瞬身構えてしまい、さらに、その否定をされているときに相手と自分とのつながりが感じられなかったりすると、ただ単に、拒絶された・否定された・見捨てられた・・・という感覚だけが残ってしまったという気がします。

 

たぶん、逆に言えば、「つながり」ということをもう少しきちんと感じられていれば、ぼくが感じているような「受け入れられない」感じは抱かなくて良かったのかもしれない・・・という気もします。

 

うーーーん・・・しかし、この「つながり」に対する感度の低さが、ぼく自身の側の問題だとすると・・・

 

・・・「学校の先生が嫌い」なのも、ぼく自身の側の問題だということになりますかねー(^^;

 
 
 

途中から、話が違う方に行っちゃいましたが、まあ、ちょっと、自分の中では発見があったので良しとしたいと思います(笑)

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2008年4月 1日 (火)

オブジェプチター

こんばんは、10月です。

 

さっぱりわけのわからないタイトルです(笑) ま、それはいったん置いておいて・・・

 

どうも、自分がここのところ感じているものというのは、「無い」ものを何とか手に入れようとする、絶望的な努力なのかな?・・・と、ふと思いました。

 

それは、たとえて言うなら(例えが変かもしれませんが)、「徳川の埋蔵金」を見つけようと自分の部屋の押し入れを家捜しする・・・というくらい「絶望的」な努力です(笑)

 
 

さて、このような努力について、「本来、人間がしてしまうもの」と述べているものを発見しました。フランスの精神分析学者のラカンという人の理論です。

 

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ラカンは、フロイトの精神分析理論を、「無意識は言語のように構造化されている」という観点から再解釈を行いました。

 

まず、最初に、混乱を避けるため、「欲求」と「欲望」という2つの言葉を区別しておきます。

 

「欲求」=本能的・生理的に生じるもので、満足することができる。(例:食欲など)

「欲望」=後天的に獲得される「言葉(シニフィアン)」によって生じ、満足することがない。(例:物欲など)

 

ここで、「言葉の獲得」ということについて少し説明を加えておきます。(斉藤環著『生き延びるためのラカン』p.64によると)子どもは、乳児期に「(ラ カン的な意味での)去勢」を経験するわけですが、このとき子どもは、母親=世界におけるペニスの欠損を補うために、その象徴(=ファルスφ)を作り出します。

 

さらにエディプス期になると、「φがないこと」を受け入れる(フロイト的な意味での去勢)ことになりますが、そのとき必然的に「言葉(シニフィアン)」が必要になるというのです。

 

ちょっとこの辺の事情を解説しておくと、「言葉」は、それが持つ意味(「シニフィエ」と呼ばれます)と音(シニフィアン)とが、「恣意的に」結びついたも のと考えられています。ここで「恣意的に」というのは、「シニフィエ」と「シニフィアン」の間には何の必然的なつながりも「無い」という意味です。もとも と「意味」とは、存在しているものに対して生じるものですから、もし仮に、「シニフィエ」と「シニフィアン」の間が必然的なつながりでできているのだとし たら、「存在しないもの」を表すようなシニフィアンは生じないというわけです。逆に言えば、「シニフィアン」が「シニフィエ」から自由であるが故に「存在 しないもの」を表すシニフィアンが生じ得るわけです。

 

 

しかし、ここで「φがないこと」をシニフィアンの世界で受け入れてしまうことは、重大な意味を持ちます。すなわちそれは、φそのものになるという本来の目 的を、φがないことをシニフィアンの世界で満たすという目的へ変更するという方向転換を意味するわけです。それは同時に、永遠に満たされることのない欲望の運動の始まりでもあ るというのです(なぜなら、シニフィアンの世界には本来求めていたものは存在しないから)。

 

ここで、「自分が持っているはず(持っていた)なのに無い(失った)」ものを「対象a(たいしょうアー、原語ではobjet a、オブジェプチター)」と呼びます。

 

 

対象aというのは、それ自体は何でもない・・・というかそもそも何もない「穴」みたいなものなわけですが、人はそれを埋めようとして、シニフィアンの世界でいろいろ頑張っちゃう・・・ということのようです。

 

前述の本で出てきた対象aの例としては、例えば、「永遠の幸福」なんてことが述べられていました。

 

・・・つまり、何かの欠如感を埋めるために「幸福」というシニフィアンで穴を埋めようとする・・・でも、穴とシニフィアンとは次元が違うものなので、穴は永遠に埋まらない・・・ということのようです。

 

このように、シニフィアンによって生じ、永遠に満足が得られない・・・これを「欲望」と呼ぶわけです。

 

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・・・と、この辺のお話が、自分の「絶望的な努力」と、どこか通じるものがあるなー(^^;と思ったわけですが・・・

 

今日、職員室で、この記事を書くために、本を3冊くらい読んでいたところ、たまたま学校に来た子に、何をしているのかと聞かれ、

「ブログの記事を書くのに、下調べをしてるところです」

と、答えたところ、

「先生!そんなことをする前に、机の整理をしてください!!」

と注意されてしまいました(^^;

 

 

・・・ですが、その後、その子はぶつぶつ言いながらも、ぼくが机の整理をするのを手伝ってくれたのでした(笑)

 

ちょっと、オブジェプチターが埋まったかな?(笑)

 

(注:ラカンに関する解説の部分は、ぼく自身もよくわかってませんので、ちゃんとしたことは、本をお読みください(^^;)

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2008年3月29日 (土)

お花見に行ってきました(^^)

昨日は、午前中、出勤したのですが、午後は休みをとって、同じ職場の人と3人で、都内へお花見に行ってきました(^^)

 

とは言うものの、実際には、桜を見る以外にもいろいろまわることになりました。

 

まず、最初に行ったところがここ↓

Abcd0010  

  

 

 

 

 

 

そうです!!○○○の人のメッカ!!!「中野ブロードウェイ」!!!

(注:ぼくは○○○ではありません(笑)) 

 

さて、中に入ってみると・・・いやー、ありますあります。何だか興味をそそる品々が、息を潜めてぼくたちを待ちかまえていました(笑)

ちなみに・・・何度も言うようですが、ぼく自身は、あまり興味はありません(笑)

 

「中野ブロードウェイ」は4F建てのビルになっており、なかにはたくさんのテナント・・・その類のお店だけではなく、喫茶店や貴金属店、美容室等々、さまざまなお店がありました。

 

ちょっと面白かったのは・・・気のせいかも知れませんが、1Fよりも2F、2Fよりも3F・・・と、上の階に上がっていくほど、客層というんでしょうか・・・お客さんのある種の傾向が少しずつ強くなってくるような感じがする点でした(^^; それはちょうど・・・上の階に行くほど、ろ過されて、純度が上がっていく感じでした(笑)

 

ちなみに、その傾向というのは・・・ちょうど、有明のビックサイトで行われるような、あるイベントに集まってくる方たちが示すものと同じ気がするんですが・・・

 

もっとも、ぼく自身は、そのような雰囲気の方たちには・・・なぜか親和性があるというか、すごく安心感を覚えてしまうというのもまた事実ではあります(^^; 

・・・なぜ、ホッとするんだろう?(笑)

 


まあ、そんなわけで、中野ブロードウェイでは、ただ、歩き回ってお店(と、そこに集まってくるお客さんたち)を見ただけだったんですが、引き続き、本来の目的であった「桜」を見に、靖国神社に向かったのでした。


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靖国神社についてみると・・・この時期に行ったことのある方はご存知かもしれませんが、神社の境内は桜というよりも・・・ずらりと並んだ「屋台」の方がずっと目立っていました(笑)

 

そうして、靖国神社でお参りをした後、となりの千鳥が淵のほうへ歩いていきました↓ 

Abcd0011   

 

 

 

 

 

 


桜の花は、こちらのほうがずっときれいに見ることができたような気がします。

 

このとき、時刻はたしか5時半くらいだったような気がするんですが、たぶん、あと1時間くらい待って周囲が暗くなってくると、ライトアップされた桜を見ることができたようです。

 

ライトアップされた桜は、幻想的でとってもきれいらしいんですが・・・昨日は、次の予定があり、暗くなるまで待っていられませんでした・・・残念!(^^;)

 

 

そうして、最後に、「はとバス」乗り場に向かったのです。

 

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とっても、おのぼりさんな感じがする「はとバス」ですが、最近うちの職場では静かなブームになっています(笑)

 

今回乗った、はとバスのコースは、屋形船での隅田川下り(上りだったかな?(^^;)をしながら夜桜見物・・・というコースでした。 

 

屋形船に乗り込んでしばらく船を走らせ、いくつかの橋をくぐっていくうちに、桜見物スポットにつきました。

 

ふと、自分たちが乗っている船の周囲を見ると・・・たくさんの屋形船が・・・集結していました↓

Abcd0012  

 

 

 

 

 

 

写真に写っているのは、数隻だけですが、実際には10数隻の屋形船が集まっていました・・・それはちょうど、『風の谷のナウシカ』で、たくさんの王蟲(おうむ)が所狭しと集まっているような情景でした。ちょっと、不気味な感じでした(^^;

 

さて、船の中には、お客さんが・・・80~90人くらい乗っていたような気がしますが・・・ふと、一人の人が目に留まりました。

 

他人の空似かも知れませんが・・・10年以上会っていない、昔の恋人にそっくりだったんです(^^;

 

 

・・・まさか?

 

 

とは思いましたが、服装も、髪型も、笑い方も、(そちらの団体の中で)せっせと料理を取り分けたりしている様子も、まさに、その人そのもの。

 

たしか、その人は、すでに結婚しているはずですし、今、この船に乗っているその団体は、どう見てもどこかの職場の集まりにしか見えませんので、その団体の中に入っているというのは明らかにおかしいといえばおかしい(その人は、専業主婦希望でしたので(^^;)。

 

他人の空似かな~?・・・それとも、ものすごいミラクルかな~?・・・と思っているうちに、屋形船は船着場に到着してしまったのでした・・・

 

 

そこからバスまで戻るとき、たまたま、その人たちの団体は、ぼくたちの後ろから歩いてきたんですが、ちょうど、その人が話している話し声が聞こえてきました・・・

 

あ・・・やっぱり、ちがう人だったのか(^^;


・・・ということがわかり、少し安心、少しさびしい気持ちを残して、昨日は、家に帰ってきたのでした(^^;

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