こんばんは、10月です。
さっぱりわけのわからないタイトルです(笑) ま、それはいったん置いておいて・・・
どうも、自分がここのところ感じているものというのは、「無い」ものを何とか手に入れようとする、絶望的な努力なのかな?・・・と、ふと思いました。
それは、たとえて言うなら(例えが変かもしれませんが)、「徳川の埋蔵金」を見つけようと自分の部屋の押し入れを家捜しする・・・というくらい「絶望的」な努力です(笑)
さて、このような努力について、「本来、人間がしてしまうもの」と述べているものを発見しました。フランスの精神分析学者のラカンという人の理論です。
* * * *
ラカンは、フロイトの精神分析理論を、「無意識は言語のように構造化されている」という観点から再解釈を行いました。
まず、最初に、混乱を避けるため、「欲求」と「欲望」という2つの言葉を区別しておきます。
「欲求」=本能的・生理的に生じるもので、満足することができる。(例:食欲など)
「欲望」=後天的に獲得される「言葉(シニフィアン)」によって生じ、満足することがない。(例:物欲など)
ここで、「言葉の獲得」ということについて少し説明を加えておきます。(斉藤環著『生き延びるためのラカン』p.64によると)子どもは、乳児期に「(ラ
カン的な意味での)去勢」を経験するわけですが、このとき子どもは、母親=世界におけるペニスの欠損を補うために、その象徴(=ファルスφ)を作り出します。
さらにエディプス期になると、「φがないこと」を受け入れる(フロイト的な意味での去勢)ことになりますが、そのとき必然的に「言葉(シニフィアン)」が必要になるというのです。
ちょっとこの辺の事情を解説しておくと、「言葉」は、それが持つ意味(「シニフィエ」と呼ばれます)と音(シニフィアン)とが、「恣意的に」結びついたも
のと考えられています。ここで「恣意的に」というのは、「シニフィエ」と「シニフィアン」の間には何の必然的なつながりも「無い」という意味です。もとも
と「意味」とは、存在しているものに対して生じるものですから、もし仮に、「シニフィエ」と「シニフィアン」の間が必然的なつながりでできているのだとし
たら、「存在しないもの」を表すようなシニフィアンは生じないというわけです。逆に言えば、「シニフィアン」が「シニフィエ」から自由であるが故に「存在
しないもの」を表すシニフィアンが生じ得るわけです。
しかし、ここで「φがないこと」をシニフィアンの世界で受け入れてしまうことは、重大な意味を持ちます。すなわちそれは、φそのものになるという本来の目
的を、φがないことをシニフィアンの世界で満たすという目的へ変更するという方向転換を意味するわけです。それは同時に、永遠に満たされることのない欲望の運動の始まりでもあ
るというのです(なぜなら、シニフィアンの世界には本来求めていたものは存在しないから)。
ここで、「自分が持っているはず(持っていた)なのに無い(失った)」ものを「対象a(たいしょうアー、原語ではobjet a、オブジェプチター)」と呼びます。
対象aというのは、それ自体は何でもない・・・というかそもそも何もない「穴」みたいなものなわけですが、人はそれを埋めようとして、シニフィアンの世界でいろいろ頑張っちゃう・・・ということのようです。
前述の本で出てきた対象aの例としては、例えば、「永遠の幸福」なんてことが述べられていました。
・・・つまり、何かの欠如感を埋めるために「幸福」というシニフィアンで穴を埋めようとする・・・でも、穴とシニフィアンとは次元が違うものなので、穴は永遠に埋まらない・・・ということのようです。
このように、シニフィアンによって生じ、永遠に満足が得られない・・・これを「欲望」と呼ぶわけです。
* * * *
・・・と、この辺のお話が、自分の「絶望的な努力」と、どこか通じるものがあるなー(^^;と思ったわけですが・・・
今日、職員室で、この記事を書くために、本を3冊くらい読んでいたところ、たまたま学校に来た子に、何をしているのかと聞かれ、
「ブログの記事を書くのに、下調べをしてるところです」
と、答えたところ、
「先生!そんなことをする前に、机の整理をしてください!!」
と注意されてしまいました(^^;
・・・ですが、その後、その子はぶつぶつ言いながらも、ぼくが机の整理をするのを手伝ってくれたのでした(笑)
ちょっと、オブジェプチターが埋まったかな?(笑)
(注:ラカンに関する解説の部分は、ぼく自身もよくわかってませんので、ちゃんとしたことは、本をお読みください(^^;)
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